思考の遷移図Ⅲ - depressive brainstorming
Daisukeh's thoughts and ideas, their transition and morphology…
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議論と雑談
世の中の人々は“議論”というものに、なにか幻想を持っているようで、やたら「正しい議論とは、こうでなければならない」とハードルを上げる。で、そうなると結局、気軽に議論ができなくなり、肝心のコミュニケーションが沈滞する。しかたないので「これは議論ではなく、雑談だ」と言いわけして、議論をはじめる。議論ではないのだから、主張が支離滅裂でも根拠がなくていいわけだ(苦笑)。
こんな使い分け、俺は無意味だと思うのだけどね。そもそも議論が一貫した根拠のある主張でなければならない、というのが間違っているわけで、別にその場の思いつきであったり、主張が二転三転しても“議論”なのだ。もちろんそういう議論を有意義と感じるかは人それぞれで、そんな相手と議論したくない、という人もいるだろう。しかし議論したくなくなるのは何もそういう理由ばかりではないわけで、一貫した根拠のある論理的な主張をする相手であっても、議論したくなくなることはある。…
… と、それはそれとして、ここで議論と雑談の定義を披露してみたい。一般には議論とは上述のように根拠のある理論的な主張の論争であり、雑談とは逆にその場の思いつきを深く考えず気楽に語るものというイメージがある。

俺は別の定義を提案する。
議論とは不愉快なもの、雑談とは心地よいもの、だ。

世の中には“(正しい)議論”とは“心地よいもの”という幻想を持っている人が少なくない。なので議論で不快な目に会うと「これは正しい議論ではない」「正しい議論にならなかったのは相手のせいだ」となる。だがちょっと待ってほしい。議論が心地よいものだというのは、誰が決めたのだろう。議論とは本来不快なものではないのか。不快だからなるべく早く終わらそうと、効率のよい議論に努めるのだ。スポーツの試合とかも、気づいてない人がいるが、実は不快なのだ。戦い続けるのは不快だからこそ、早く勝ちたいと思うのだ。「良い試合ができた」というのは、早く勝てたということなのだ。
一方で雑談は心地よいものだ。いつまでも続けていたい。続けることが目的なのだ。これはたとえばスポーツでも得点や勝ち負けなどにこだわらず、ひたすらプレイするのにも似ている。昼休みにやるバトミントンは、相手が打ち返せるように打つ。続けて打ち合うのが楽しいのであって、相手が打ち返せないような球(羽根)を打ってはいけない。草野球でも、相手チームが戦意喪失するほど打ち負かしてはいけない。楽しむのが目的だからだ。…
… 議論は勝ち負けではないとよく言う。スポーツは勝ち負けのゼロサムゲームだが、議論はお互いが協力して成果を生み出すものなのだ、と。俺はこの比較はおかしいと思う。スポーツでも互いの技術の向上はある。その意味では双方が得をしているわけだ。しかし試合中はあくまでゼロサムゲームだ。議論も同じで、たしかに議論の成果はゼロサムゲームではない。片方では到達出来なかった思考領域に到達する手段が議論なのだ。しかしあくまでそれは成果物であり、議論をプレイしている最中は、ゼロサムゲームなのだと思う。互いに必死になって相手を打ち負かそうとすることでスポーツの技術が向上していくように、互いに相手を論破しようと努力することで、結果的に双方が成果物を得られる。…

相手の主張を理解するというのは、相手の思考アルゴリズムを自分の思考アルゴリズムの一部にコピーすることであり、必ずアルゴリズムの分析が伴う。



スポーツでも勝つには相手の行動のアルゴリズムを分析しなければならない。相手の行動のアルゴリズムを自分の中にコピーすることで、相手の行動が予測可能になり勝つことができる。



“論破しようとする”という行為は、自分の中に作った相手の思考アルゴリズムのモデルと、実物の相手の思考アルゴリズムの差を比較・分析し両者を一致させようとすること。論破しようとすることで、どうしても論破できない部分(両者の差)が見えてくる。相手よりも相手の思考アルゴリズムを深く分析できて初めて論破できる。



単なる情報交換にはこれがない。議論を静的な情報(データ)の交換としか捉えていない人にはピンとこないかもしれない。理解とは情報(データ)のコピーではなく、プロセス(アルゴリズム)のコピーなのだ。

- なかなか鋭い考察である。後半で「論破」という言葉を、アルゴリズムという言葉で正当化している点も見逃せない。議論は良いもので雑談は悪いものという近視眼的な考え方を、論理的なひとつの見地で説明している面白い記事だと思う。 (via ガジェット通信)

議論と雑談

世の中の人々は“議論”というものに、なにか幻想を持っているようで、やたら「正しい議論とは、こうでなければならない」とハードルを上げる。で、そうなると結局、気軽に議論ができなくなり、肝心のコミュニケーションが沈滞する。しかたないので「これは議論ではなく、雑談だ」と言いわけして、議論をはじめる。議論ではないのだから、主張が支離滅裂でも根拠がなくていいわけだ(苦笑)。

こんな使い分け、俺は無意味だと思うのだけどね。そもそも議論が一貫した根拠のある主張でなければならない、というのが間違っているわけで、別にその場の思いつきであったり、主張が二転三転しても“議論”なのだ。もちろんそういう議論を有意義と感じるかは人それぞれで、そんな相手と議論したくない、という人もいるだろう。しかし議論したくなくなるのは何もそういう理由ばかりではないわけで、一貫した根拠のある論理的な主張をする相手であっても、議論したくなくなることはある。…

… と、それはそれとして、ここで議論と雑談の定義を披露してみたい。一般には議論とは上述のように根拠のある理論的な主張の論争であり、雑談とは逆にその場の思いつきを深く考えず気楽に語るものというイメージがある。

俺は別の定義を提案する。

議論とは不愉快なもの、雑談とは心地よいもの、だ。

世の中には“(正しい)議論”とは“心地よいもの”という幻想を持っている人が少なくない。なので議論で不快な目に会うと「これは正しい議論ではない」「正しい議論にならなかったのは相手のせいだ」となる。だがちょっと待ってほしい。議論が心地よいものだというのは、誰が決めたのだろう。議論とは本来不快なものではないのか。不快だからなるべく早く終わらそうと、効率のよい議論に努めるのだ。スポーツの試合とかも、気づいてない人がいるが、実は不快なのだ。戦い続けるのは不快だからこそ、早く勝ちたいと思うのだ。「良い試合ができた」というのは、早く勝てたということなのだ。

一方で雑談は心地よいものだ。いつまでも続けていたい。続けることが目的なのだ。これはたとえばスポーツでも得点や勝ち負けなどにこだわらず、ひたすらプレイするのにも似ている。昼休みにやるバトミントンは、相手が打ち返せるように打つ。続けて打ち合うのが楽しいのであって、相手が打ち返せないような球(羽根)を打ってはいけない。草野球でも、相手チームが戦意喪失するほど打ち負かしてはいけない。楽しむのが目的だからだ。…

… 議論は勝ち負けではないとよく言う。スポーツは勝ち負けのゼロサムゲームだが、議論はお互いが協力して成果を生み出すものなのだ、と。俺はこの比較はおかしいと思う。スポーツでも互いの技術の向上はある。その意味では双方が得をしているわけだ。しかし試合中はあくまでゼロサムゲームだ。議論も同じで、たしかに議論の成果はゼロサムゲームではない。片方では到達出来なかった思考領域に到達する手段が議論なのだ。しかしあくまでそれは成果物であり、議論をプレイしている最中は、ゼロサムゲームなのだと思う。互いに必死になって相手を打ち負かそうとすることでスポーツの技術が向上していくように、互いに相手を論破しようと努力することで、結果的に双方が成果物を得られる。…

相手の主張を理解するというのは、相手の思考アルゴリズムを自分の思考アルゴリズムの一部にコピーすることであり、必ずアルゴリズムの分析が伴う。

スポーツでも勝つには相手の行動のアルゴリズムを分析しなければならない。相手の行動のアルゴリズムを自分の中にコピーすることで、相手の行動が予測可能になり勝つことができる。

“論破しようとする”という行為は、自分の中に作った相手の思考アルゴリズムのモデルと、実物の相手の思考アルゴリズムの差を比較・分析し両者を一致させようとすること。論破しようとすることで、どうしても論破できない部分(両者の差)が見えてくる。相手よりも相手の思考アルゴリズムを深く分析できて初めて論破できる。

単なる情報交換にはこれがない。議論を静的な情報(データ)の交換としか捉えていない人にはピンとこないかもしれない。理解とは情報(データ)のコピーではなく、プロセス(アルゴリズム)のコピーなのだ。

- なかなか鋭い考察である。後半で「論破」という言葉を、アルゴリズムという言葉で正当化している点も見逃せない。議論は良いもので雑談は悪いものという近視眼的な考え方を、論理的なひとつの見地で説明している面白い記事だと思う。 (via ガジェット通信)

心理学者との対話~美の絶対性と相対性について

進行役:ジークムント博士(以下、心理学者)パネリスト:トーマス氏(以下、エンジニア)パネリスト:アッキレ氏(以下、デザイナー)

心理学者いきなり単刀直入にお伺いしますが、「デザイナーはなぜデザインするのか?」、「エンジニアはなぜエンジニアリングするのか?」ということについて、お二人は何らかの考えをお持ちでしょうか?
デザイナー色々な考えがあるかと思いますが、多くのデザイナーの意見を平均すれば、おおむね「社会を良くしたいからデザインする」という方向に向かっていると思います。アーティストは内面からわき上がる創作意欲を元に作品を作るのに対して、デザイナーは常に創作物と社会との接点、すなわち関係性をつくる活動家だと言えるのではないでしょうか。
エンジニアそういった意味では、きっとデザイナーもエンジニアも変わりはありません。アーティストとデザイナーの関係は、サイエンティストとエンジニアの関係に似ています。純粋なサイエンスというのは社会的な応用や製品化の可能性について考慮しなくても良いという「免罪符」を与えられています。サイエンスで培った知恵を、エンジニアリングによって社会還元する、これが科学技術と産業の発展を支える両輪なのだと思います。
心理学者お二人とも、素晴らしいお考えをどうもありがとうございました。ここからは個別に、より具体的なお話しを伺いたいと思います。まずは世界的な工業デザイナーでいらっしゃるアッキレさんにお伺いします。デザインにおいて決定的に重要な事項として、美(Schönheit)という概念があるかと思います。人々の「美」に対する感性、すなわち「美意識」というのは、どのように培われるのでしょうか?…
- この対談はとても興味深い。なんでもかんでもクリエイティブである必要はないけれど、作業効率だとか生産性とか業務フローとか、余計なことを考えてしまう輩には非常に面白いトピックだと思う。「その1」と書いてあったので、今後もフォローしてみようと思う。 (※元サイトから序文を転載) (via デザイン思考)

心理学者との対話~美の絶対性と相対性について

進行役:ジークムント博士(以下、心理学者)
パネリスト:トーマス氏(以下、エンジニア)
パネリスト:アッキレ氏(以下、デザイナー)

心理学者
いきなり単刀直入にお伺いしますが、「デザイナーはなぜデザインするのか?」、「エンジニアはなぜエンジニアリングするのか?」ということについて、お二人は何らかの考えをお持ちでしょうか?

デザイナー
色々な考えがあるかと思いますが、多くのデザイナーの意見を平均すれば、おおむね「社会を良くしたいからデザインする」という方向に向かっていると思います。アーティストは内面からわき上がる創作意欲を元に作品を作るのに対して、デザイナーは常に創作物と社会との接点、すなわち関係性をつくる活動家だと言えるのではないでしょうか。

エンジニア
そういった意味では、きっとデザイナーもエンジニアも変わりはありません。アーティストとデザイナーの関係は、サイエンティストとエンジニアの関係に似ています。純粋なサイエンスというのは社会的な応用や製品化の可能性について考慮しなくても良いという「免罪符」を与えられています。サイエンスで培った知恵を、エンジニアリングによって社会還元する、これが科学技術と産業の発展を支える両輪なのだと思います。

心理学者
お二人とも、素晴らしいお考えをどうもありがとうございました。ここからは個別に、より具体的なお話しを伺いたいと思います。まずは世界的な工業デザイナーでいらっしゃるアッキレさんにお伺いします。デザインにおいて決定的に重要な事項として、美(Schönheit)という概念があるかと思います。人々の「美」に対する感性、すなわち「美意識」というのは、どのように培われるのでしょうか?…

- この対談はとても興味深い。なんでもかんでもクリエイティブである必要はないけれど、作業効率だとか生産性とか業務フローとか、余計なことを考えてしまう輩には非常に面白いトピックだと思う。「その1」と書いてあったので、今後もフォローしてみようと思う。 (※元サイトから序文を転載) (via デザイン思考)

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