
世の中の人々は“議論”というものに、なにか幻想を持っているようで、やたら「正しい議論とは、こうでなければならない」とハードルを上げる。で、そうなると結局、気軽に議論ができなくなり、肝心のコミュニケーションが沈滞する。しかたないので「これは議論ではなく、雑談だ」と言いわけして、議論をはじめる。議論ではないのだから、主張が支離滅裂でも根拠がなくていいわけだ(苦笑)。
こんな使い分け、俺は無意味だと思うのだけどね。そもそも議論が一貫した根拠のある主張でなければならない、というのが間違っているわけで、別にその場の思いつきであったり、主張が二転三転しても“議論”なのだ。もちろんそういう議論を有意義と感じるかは人それぞれで、そんな相手と議論したくない、という人もいるだろう。しかし議論したくなくなるのは何もそういう理由ばかりではないわけで、一貫した根拠のある論理的な主張をする相手であっても、議論したくなくなることはある。…
… と、それはそれとして、ここで議論と雑談の定義を披露してみたい。一般には議論とは上述のように根拠のある理論的な主張の論争であり、雑談とは逆にその場の思いつきを深く考えず気楽に語るものというイメージがある。
俺は別の定義を提案する。
議論とは不愉快なもの、雑談とは心地よいもの、だ。
世の中には“(正しい)議論”とは“心地よいもの”という幻想を持っている人が少なくない。なので議論で不快な目に会うと「これは正しい議論ではない」「正しい議論にならなかったのは相手のせいだ」となる。だがちょっと待ってほしい。議論が心地よいものだというのは、誰が決めたのだろう。議論とは本来不快なものではないのか。不快だからなるべく早く終わらそうと、効率のよい議論に努めるのだ。スポーツの試合とかも、気づいてない人がいるが、実は不快なのだ。戦い続けるのは不快だからこそ、早く勝ちたいと思うのだ。「良い試合ができた」というのは、早く勝てたということなのだ。
一方で雑談は心地よいものだ。いつまでも続けていたい。続けることが目的なのだ。これはたとえばスポーツでも得点や勝ち負けなどにこだわらず、ひたすらプレイするのにも似ている。昼休みにやるバトミントンは、相手が打ち返せるように打つ。続けて打ち合うのが楽しいのであって、相手が打ち返せないような球(羽根)を打ってはいけない。草野球でも、相手チームが戦意喪失するほど打ち負かしてはいけない。楽しむのが目的だからだ。…
… 議論は勝ち負けではないとよく言う。スポーツは勝ち負けのゼロサムゲームだが、議論はお互いが協力して成果を生み出すものなのだ、と。俺はこの比較はおかしいと思う。スポーツでも互いの技術の向上はある。その意味では双方が得をしているわけだ。しかし試合中はあくまでゼロサムゲームだ。議論も同じで、たしかに議論の成果はゼロサムゲームではない。片方では到達出来なかった思考領域に到達する手段が議論なのだ。しかしあくまでそれは成果物であり、議論をプレイしている最中は、ゼロサムゲームなのだと思う。互いに必死になって相手を打ち負かそうとすることでスポーツの技術が向上していくように、互いに相手を論破しようと努力することで、結果的に双方が成果物を得られる。…
相手の主張を理解するというのは、相手の思考アルゴリズムを自分の思考アルゴリズムの一部にコピーすることであり、必ずアルゴリズムの分析が伴う。
スポーツでも勝つには相手の行動のアルゴリズムを分析しなければならない。相手の行動のアルゴリズムを自分の中にコピーすることで、相手の行動が予測可能になり勝つことができる。
“論破しようとする”という行為は、自分の中に作った相手の思考アルゴリズムのモデルと、実物の相手の思考アルゴリズムの差を比較・分析し両者を一致させようとすること。論破しようとすることで、どうしても論破できない部分(両者の差)が見えてくる。相手よりも相手の思考アルゴリズムを深く分析できて初めて論破できる。
単なる情報交換にはこれがない。議論を静的な情報(データ)の交換としか捉えていない人にはピンとこないかもしれない。理解とは情報(データ)のコピーではなく、プロセス(アルゴリズム)のコピーなのだ。
- なかなか鋭い考察である。後半で「論破」という言葉を、アルゴリズムという言葉で正当化している点も見逃せない。議論は良いもので雑談は悪いものという近視眼的な考え方を、論理的なひとつの見地で説明している面白い記事だと思う。 (via ガジェット通信)
ギレンの演説【実写版】ギレン・ザビ演説~ガルマ国葬~生アフレコ
- ガジェット通信「ジオン軍から学ぶ“人々の記憶に残る”ブログ運営術」からのブランチで。生はいい。「ジークジオン!ジークジオン!ジークジオン!」
ものまね 大物政治家 - 田中角栄・渡辺美智雄・大平正芳・福田赳夫…
「ブログやツイッターの普及により、 知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。」より。
2011年1月10日 読売新聞朝刊
日本の改新 識者に聞く 山崎正和氏
もう一つ心配なのが、大衆社会がより悪くなることだ。ブログやツイッターの普及により、 知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。これが新聞や本の軽視につながり、 「責任を持って情報を選択する編集」が弱くなれば、国民の知的低下を招き、関心の範囲を狭くしてしまう。ネット時代にあっても、責任あるマスコミが権威を持つ社会にしていく必要がある。
「知的訓練を受けていない人」っていう文書表現がなかなか,久しぶりに紙上でセンスある言葉を見たような気がする.内容はともかく言葉は光っている.さすが京都生まれの劇作家おじいちゃん,イキである.ぜひ僕も受けてみたいな知的訓練.みんなで受けよう知的訓練.明日のデートは知的訓練場.…
- デザイン思考にして、これは思考のデザインというべきか。思索がメディアを使うことで双方向となって、さらに分散したり収束したりする。個としての思考が集団を扇動し、静を動に変える。しかしそれが正しいか誤りかは別次元。求む、ネクスト=ヒルベルト。(自分で書いてて意味消失だ。) (via デザイン思考)
本当は2009年の大晦日までに済ませておきたかったのだが、体調がわるかったり用事があったりして落ち着ける時間ができなかったから、年が明けた今日 (2010年1月2日)に2009年を振り返ってみようと思う。実は一度ブログを読み返してこのアーティクルを書きかけていたのだが、何を書いているのか わからなくなったのでもう一度書く。…